メンタルヘルス先進国のアメリカでは、昔から政府が熱心にメンタルヘルスに取り組んできたかのように考えている方も多いと思いますが、現実には、米国政府がメンタルヘルスについて本格的に取り組み始めたのは、ここ10年ほどのことです。
■白人男性の自殺率が上昇
クリントン氏が大統領に就任したころ、アメリカではダウンサイジング、レイオフが盛んで、IBMやボーイングなどで大量の人員削減が行われていました。それまではブルーカラーを対象とした雇用調整が主でしたが、このころにはホワイトカラーもその対象となり始めていました。雇用の不安定化によって、多くの人がストレスを感じていたようで、同時期に米国では白人男性の自殺率が高まりました。
しかし、白人男性の自殺率に関しては、米国ではあまり関心を持たれませんでした。女性、子供、少数民族については話題になることが多いのですが、弱者とみなされていない白人男性については、関心が低かったようです。
特に、民主党政権は伝統的にマイノリティ(少数民族など)の支持を受けており、白人男性のケアについては、あまり目が向けられない傾向にあります。ある米メディアでは、「アメリカ人は、白人男性の死よりも、クジラの死のほうに関心がある」と皮肉られていたほどです。
■ホワイトハウスで史上初のメンタルヘルス会議
それでも、クリントン政権の中には、唯一熱心にメンタルヘルスに取り組んでいる人がいました。それは、ゴア副大統領夫人のティッパーさんです。
ティッパー夫人は、心理学のマスターを持っている人で、昔から、メンタルヘルスやホームレス支援に取り組んでいました。彼女は、クリントン政権でメンタルヘルス政策顧問を務めており、メンタルヘルスに関しての国民の偏見を取り除きたいという考えから、1999年に史上初めて、ホワイトハウスでメンタルヘルス会議を開催しました。この会議には、クリントン大統領夫妻、ゴア副大統領も出席しています。米国でもメンタルヘルスに関する偏見が根強く残っており、ティッパー夫人はまずそれを取り除きたいと考えたのです。
■偏見を取り除くために
アメリカでは、企業経営者や政治家で精神科に通っている人は何人もおり、気軽に精神科に行ける文化があるようです。しかしながら、企業経営者や政治家などが精神科でカウンセリングを受けていることが報道されると、多くの場合は、認めずに必死になってそれを否定しようとします。
というのは、「自分の心をコントロールできない人間が、会社をコントロールできるのか、正しい方向に国をコントロールできるのか」と突き上げられてしまうことがあるからです。同じような文脈で、肥満体型の人も、「自分をコントロールできない人間が、エグゼクティブとして会社をコントロールできるのか」と言われてしまいます。
自己コントロール能力がないとみなされることは、経営者や政治家にとっては、リスクの高いことなので、実際には精神科に通っていても、「通っていない」と否定されてしまいます。そのような背景も、精神科への偏見につながっていると考えられます。
ホワイトハウスでのメンタルヘルス会議は、政治的デモンストレーション的な意味合いもあったでしょうが、メンタルヘルスの重要性をメディアに報じてもらい、少しでも偏見を取り除いてもらうことが大きな狙いでした。同会議が史上初という点から見ても、ホワイトハウスが本気でメンタルヘルスに取り組む姿勢を示したのは、1999年が最初と言えます。
| 共和党政権 | 民主党政権 |
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1999年 ホワイトハウスで史上初めてメンタルヘルス会議(ティッパー・ゴア前副大統領夫人)
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2002年 メンタルヘルス委員会設立(ブッシュ大統領)
2003年 メンタルヘルス委員会、メンタルヘルス改革についての最終報告書を大統領に提出
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超党派のメンタルヘルスへ
アメリカのメンタルヘルス政策を理解するには、各大統領や、その所属する政党(共和党、民主党)の基本的な政策方針への理解が必要になります。メディアやシンクタンクも、それぞれ共和党寄り、民主党寄りの主張をすることが多いので、情報を読み解くときにも、例えば「ニューヨークタイムズの記事によると・・・」というような場合には、民主党系のオピニオンである可能性を考慮しておかないといけません。
アメリカの情報は、背景を意識しておかないと、日本では、引用する人たちに都合よく用いられて、情報操作されてしまう危険性を秘めています。そこで、ここでは、背景の推測がつきやすいように、民主党と共和党に分類して掲載しています。
ただし、メンタルヘルス政策に関しては、米国の国家にとって極めて重要であるとの認識から、超党派での取り組みが始まっています。
2001年からはブッシュ政権がスタートしました。日本では、ブッシュ大統領については、軍事面ばかりが語られていますが、ブッシュ大統領がメンタルヘルス面について、何もしていないのかというと、それはまったく違います。
■教育・メンタリング政策の推進
もともとブッシュ大統領は共和党の保守派の支持を受けている中道派です。キリスト教の影響も強く受けていますが、国内政治においては、自律的で規律のある温かい社会の実現を目指しています。そのため、メンタルヘルスやメンタリングの取り組みなどには熱心です。
(注:「メンタリング」とは、大人や教会関係者などが、青少年をサポートして、非行や自殺を防ぐことです。また、学力面のサポートが行われることもあります。)
ブッシュ氏が政権スローガンとして掲げたのは「compassionate conservatism 思いやりのある保守主義」です。共和党全国大会での指名受諾演説(選挙公約のようなもの)や大統領就任演説でも、思いやりのある保守主義について述べ、青少年のメンタリングについて熱く語っています。そして、大統領になってからは、犯罪者の子供たちに対して、「子供たちには罪はない」ということで、彼らを支援するためのプログラムもおこなっています。また、教育関係者にはよく知られていますが、就任後すぐに打ち出した政策は、「No Child Left Behind (一人の子供も置き去りにしない)」という教育政策です。さらに、就任から半月足らずで、父ブッシュ政権で制定された障害者法に基づき、新しい障害者支援政策をスタートさせています。
ちなみに、ローラ夫人は、小さな子供への「読み聞かせ」に力を入れているということで有名ですし、パウエル前国務長官もアメリカズ・プロミスで子供たちのメンタリングに力を入れていた人です。
共和党でありながらも、民主党に近い政策がいくつも採り入れられている。そこが「思いやりのある」の部分に該当します。
■メンタルヘルス委員会からホワイトハウスへ最終報告書
メンタルヘルスに関しては、ブッシュ大統領は、2002年にメンタルヘルス委員会を設立しました。同委員会は2003年に大統領に報告書を提出し、メンタルヘルス改革について提言しています。そこには、メンタルヘルス教育の重要性、消費者(利用者)
中心のメンタルヘルスサービスの実現、サービス格差の是正、早期発見プログラム、より質の高いサービスの提供と研究促進、インターネットなどを活用した啓発活動の重要性などが盛り込まれています。
この報告書では、「コンシューマー・センタード」と「リカバリー・オリエンティッド」が強調されています。メンタルヘルスの目的は、単なる「病気・障害の治癒」ではなく、「会社や社会に復帰すること」であるという意味です。ここには、公的機関による保護よりも個人の自主自立を重視する共和党的な発想も含まれていると考えられます。
また、報告書では、政府機関は、省庁、自治体の壁を超えて、連携して個人個人に合わせたプランを作らなければ、消費者中心のケアはできないと結論づけています。
いずれにせよ、政府機関及びメンタルヘルス・サービス・プロバイダー(医師、精神科医、心理療法家、ソーシャル・ワーカー、EAPプロバイダーなど)は、消費者中心の発想に変革し、「会社や社会に戻って以前と同じように生活していきたい」という消費者の望んでいる最終目的を見誤ってはならないということが強調されています。
■前例のないメンタルヘルス改革キャンペーン
この報告書をもとに、DSMシリーズで有名な米国精神医学会をはじめ、主要なメンタルヘルス関連団体がコラボレーションを組んで、法整備を求めるなどの「メンタルヘルス改革キャンペーン」を始めています。議会関係者も超党派でこのキャンペーンを支援しており、青少年の自殺防止法などいくつかのメンタルヘルス対策法が制定されています。また政府機関においては、国立精神衛生研究所によって、自殺を防止するための「Real Men, Real Depression」というこれまでにはない啓発キャンペーンが展開されています。
メンタルヘルスは国のあらゆる分野にかかわる問題です。自殺、犯罪、青少年非行、薬物依存、ホームレス、差別、兵士のPTSD、育児放棄、虐待、いじめ、DV、介護、終末期医療、過労、企業の生産性など、あらゆる分野にかかわっています。アメリカでは、メンタルヘルスは、国家にとって極めて重要な問題であるという認識が深まりつつあるようです。
ただし、メンタルヘルス先進国のアメリカといえども、改革の試みは始まったばかり。その実現には、まだまだ時間がかかりそうです。
(2006年10月)